第16回 もう、なかった。
小説『蒼い殻』第1話はこちら。
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店の裏の屋根の下に入ったら、桜の木に寄りかかっていた純が顔を上げた。まだ咲いてもいないのに、つぼみがひとつ、枝から手を離す。
「おかえり!」
純はくちびるの上と下両方を巻きこむようにかんで、ふふん、と自慢げに砂利を鳴かせながら近づいてきた。
「今日はけっこうあったかいね」
そう言い、とつぜん湿ったクリーナーであたしの視界を遮った。
びっくりしている間に、シールドについていた虫の死骸が拭われる。指先までちゃんと神経が通っているんだとわかる、細かでやわらかな動きだった。純はひっついたものをつまみ取ってから、布の綺麗なところで体液をすくった。それを五ヶ所くらい、あたしの五センチ先でやっていた。
「みんな来てるよ。春休みはなんか、飽きるって」
気が向いたら降りてきてよ、と純はクリーナーを無造作にズボンのポケットへ押しこんだ。理性的な虹彩は感じがよく、やっぱり声にする前に、心許なさはしおれていく。
あたしは裏口を通ってなかに入り、厨房から呼びかけてくる父さんに「あー」「マジか」「はーい」のみっつだけで答えながらフロアを覗いた。もうカウンターから見えないようになんて気を遣わなくてもいい気がしている。下心見え見えのお客さんはホワイトデー以来途絶えていた。
おーい、ひな。運んでくれ。と父さんのさびが生えたような低い声に呼ばれ、きっとはんぶんも飲まれないであろうブラックコーヒーを、啓斗たちのいる角のテーブルに持っていく。カウンターの純とその後輩のうしろを通り過ぎるときに見えた進路調査票はよれよれだった。あたしは人生を何周したってまともな道を選べる気がしない。いくらやったって、中学生ぐらいで不登校になったり、暴走族に入ったり、予定とは違うふうになっちゃうんだろう。
グラスをテーブルに置いて引き返そうとしたら、快斗に腕を掴まれた。
「戻んなよ」
「あたし、出納帳書かないといけないんだけど」
「スマホに打ちこむだけだろ。ここでやれ」
快斗はあたしを啓斗との間に座らせ、うまいこと弟にちょっかいを出されない席をつくり出した。罪な奴だな、と思っている間もなく、カンニングの手立てを失った啓斗がヒナ姉も考えろと英文を見せつけてくるから、プリントに名前だけ書きこんで返す。なんだよやってくれるんじゃねーのかよ。なんてまた騒いでいるせいで、向かい側で動画を観ている香凜に脚を蹴られたらしい。つぎはぎの日本語を生み出してくれる翻訳サイトに頼りはじめるのが見えたから、動詞の場所だけ教えてあげた。
香凜の手にある真奈ちゃんのスマホから漏れ出している、軽快な洋楽とそれを覆う悲鳴に近い歓声は、波のように高くなったり低くなったりしている。去年まで関係者席から眺めていたそのイベントをライブ配信で感じる言い訳を、あたしはどこかで探していた。鼓膜が敏感にその音声を吸い取ってるのも、偶然だからね。
過去を引きずっているのか、自分が大人に向かっているのか、そもそもなんの出会いも果たしていないだけなのか。細胞が煮え立って蒸発して人間じゃなくなるくらい人を好きになることがなくなった理由が、きっともっとずっとわからなくなってく。
香凜のほうが熱心に画面を凝視していて、真奈ちゃんはぼんやりと、どっちかといえば後輩にすっぱいレモネードのアイスティー割りを渡している純に集中しているみたいだった。ひとりを自分の世界だけに囲っておきたい、その子にほかの誰かと交わってほしくない年頃の女の子がするように怒ったり、泣きそうに顔をゆがめたりはしなかった。ただ遠くから、ひどくいとおしそうに見つめている。
いいな。
先を見ようが見まいがそういう気持ちになれるこの子も、そうさせることができる純も。
再び歓声が大きくなったとき、香凜がぴょんと身体を起こして、真奈ちゃんを揺すった。
「ほら真奈、また出てきたよ!」
我に返ったように真奈ちゃんが画面を覗きこむ。わぁ、ほんとだぁ、とふにゃふにゃ笑った。オレにもみして、と啓斗に言われて、画面を全員に向けるように香凜の腕が伸びる。真奈ちゃんの、あっ、という細い声はあたしのためのものだとすぐにわかった。歩いてくるのは美沙だった。
シアーブラウスもハイウエストのパンツも真っ黒で、透けている腕のしなやかさを引き立てている。私が死ぬところまで撮ってよね、と美沙はよく言っていた。だからあたしは、黒い服を着た美沙に見下ろされる日が来ることを恐れていた。ほんとうは、薄々気づいていたんだ。危なっかしいあたしに、美沙はいつも神経をすり減らしていた。不安なのは、あたしのうしろに立って髪を乾かしてくれる美沙のほうだった。
美沙が立ち止まってきゅっと顎を引き、左右に揺れて腕が上がった。
とき。だった。
表側のレースがあるはずのところから、ちらっと素肌が顔を出したように見えた。
途端に、それに巻きこまれるみたいに、下の黒い布が縦に裂ける。傷口は腰まで伸びて、その間ずっと、生地の軋む音が聞こえている気がした。自然に、皮が剥がれるように、現れ、空気がうなり、人口風で頼りなく揺れ——
やべぇなこれ、と誰かがつぶやく。浮き立っているあばらをたどり降りた先。クレーターを隠すようにまぶしすぎる光を焚いていたことを、スポットライトが否定する。そこにはもう、なかった。
「陽向だって、こんな汚いの見たら嫌いになるよね」
「なんで? 美沙はきれーだよ、世界地図みたい。でももしみんなには内緒にしておきたいなら、美沙のぜんぶはあたしだけが残しといてあげる。肌なんか見せなくたって可愛い美沙のこともどっちも、あたしが撮ってあげる」
「ほんと? 重荷に思わない? 怖いとか、感染るとか、触りたくないとか」
「これ、美沙は痛くないんでしょ?」
「うん、大丈夫」
「だったらいいよ。この島の上に、ふたりっきりでいよう」
おぼえてる。重力にさからった、歯がゆいこたえ。
視界から美沙をかき消したのは陽光でもなんでもなく、色の白い手が画面を握ると、ブラックアウトした隙間にこっちの世界がきらりと映った。
顔を上げれば、はんぶんとじられた真っ黒な目が、あたしのことを見下ろしている。
ふっ、とメンソールの香りがした。気がした。
©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA