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第18回 覚めない。

小説『蒼い殻』第1話はこちら。

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 いま、あたしはすっごく、汚れている。

 目の前に川が流れているのが、なんとなくわかった。まっしぐらに、飛びこむ。じゃばじゃばと水をかき分けて、腕をこすって、洗い流す。

 かん、かん、と頭にぶち当たるような呼び出し音をいくつも投げられて、ひらけたと思って胸が跳ねたとき、たぶん、美沙は風のなかを走っていた。

 遅れてきた声に名前を呼んだあと。ずっと頭を巡らせていたセリフもどっかに飛んでしまってまごついていると、ねぇ、と聞こえる。

『……ネットでまとめられてたよ。実家にいるでしょいま』

 気をつけなよ、と美沙は言った。なんだか余計な心配をかけたようでいい気になって、あたしは「へへっ」と声を出した。

「あたしがギャラ飲みしてるとか、イケメン起業家がパトロンだとかいうやつ?」

『そっちじゃないよ、のんきにオムライスの卵巻いてるってほう』

 美沙が息をつく。おぉ、これは、勝手に想像してにやついてますね。破かず綺麗にできるようになったっての。

『やめて。笑わせないで』

「いやいや、あたしなんも言ってない」

『言わせたでしょ?』

「横暴がすぎるよ、みっちゃん……」

 店の二階にいたあたしは、手がそわそわしてきて机にあったボールペンを鳴らした。かちかちと出し入れしてあるとき止めると、青の芯は出ていた。電話越しに吹いている風を同じ形になぞれるんじゃないかと、胸が清らかに発熱した。

『……それで、どうしたの?』

 切実に高く、消えそうに、鼓膜を通じる。

「あー……」

 美沙が、身構えたような気がした。彼女にとってそんなに都合の悪いことを、あたしはこれから言うんだろうか。

「……雨、に、ならないかなぁ」

『ぜんぜんそんな感じしないけど』

「え?」

『……こっちはね』

「ふーん……」

 別に、そういうんじゃないんだけどなぁ。

 美沙にも、あたしの言ってることが、わかんなくなったのかなぁ。

 そうは思いたくないくせに。とおもう。現に、こいつはわざと言ってるって、自分に言い聞かせている。

 あのさぁ、とあたしが言っても、美沙はもうひるまなかった。

「最近たばこ吸ってる?」

『……なに言ってんの?』

「……たまに内緒でもらってたでしょ、前から」

 ときどき苦り切った顔をして楽屋を出ては、上着を替えて戻ってきた。取り上げたらもっとふさぎこんでしまう気がしたから、家に呼んでココアを淹れた。

『……慰めてくれるわけ?』

「……大丈夫かなって」

『うん……』

「まぁ、もうあたしじゃないほうがいいのかもしんないけど……」

 そう言うと、風の鳴り方が変わるのがわかった。重く、がさ、と音がして、美沙にため息をつかれたのだと知る。

『だったらほっとけばいいじゃん。愛情表現が下手で面倒な女のことなんか』

「そうだよね……ごめんね」

 あたしがそう言うと、美沙はひとつ飲みこんだ。それから少し空いて、すうっと空気が通る。

『……日下さんとそういうことするために消したの』

 そのとき、あたしは息を引き取ったのだ。別におかしなことじゃないと言われればそのとおりだった。美沙には彼との間にあったことを何も話さなかったんだから。身体が途方もない冷たさにさらされて固くなる。

「ほんとに? 日下?」

『うん……』

「そっか、日下か……」

『そう、日下……』

 手が痙攣して握っていたものが滑り落ちる。ボールペンよりも先に着地したスマホが、木の床に鈍い音を残した。おめでとう! とか、言えないし。わーい、よかったー、なんてのも無理。これっぽっちも、よくない。

 なら日下じゃなかったら、あたしは嘘がつけたんだろうか。たぶん誰が相手だって、そのまんまの美沙の何が悪いと、やつあたりしてしまう。

 そっかぁ、やっぱりそうなんだ。

 あたしはあたしの会いたい人をよーく知っていた。知っていたのに、毎日月経初日みたいなまどろみのなかに隠れていた。

無駄な抵抗。断末魔の叫び。深く呼吸しながらスマホを拾い上げる。美沙は黙って待っていた。

「……急に電話してごめん、なんか」

『……別に。ちゃんとご飯食べてるの?』

「……うん」

『寝てんの?』

「……うん。ねぇ」

あいつ、やさしい?

 まぁね、と、美沙は絞り出すように言った。

 肌の表面に鱗が浮き上がってくるみたいに身の毛がよだつ。どうしてそんな。苦しくてたまらない、みたいな言い方をすんの。

 それとも、あたしが美沙の声と本心をばらばらに組み合わせていて、一致なんてしてなかったっていうの。

 ずっとさ、こうやって穢らわしいことを思ってる。

 ごめんね、じゃあね、とスマホを離して表示された七分七秒に美沙の誕生日を連想してしまうのが嫌で、無駄に時間をかけて通話を切った。机にスマホを伏せて歩きだすと、細長いものが足の裏に食いこむ。それを後ろに蹴飛ばして、換気をしようと外に逃げた。

©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA

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