つづくかも
その後。六本木にて。
女が背後を横切るのがわかった。わたしは振り返るが、黒髪の女が出ていってしまった後の道に残る、石けんの香りしか知らない。きっと面長の顔に、まつ毛の短い目と、高い鼻を並べてみる。目をとじてまっすぐに口づけようとすれば、ようやく唇の形が顕になった。
瞳に光を与えると、強風だった。イチョウの落ち葉が、渦を巻いて飛び交っていた。
「すなおさん、ここまでの部分で問題はありませんか? この後の展開ですけど——」
わたしは立ち上がる。いつも、はむかうもの。なかば消えかけのそれから目を離せば、すぐに死んでしまいそうだった。
彼女を捕まえるのがわたしの仕事だった。出ていってしまった黒髪の女が、ほんとうにいなくなってしまう前に。
「すなお」は、緑色の抱き枕を愛していた。それを羽交締めにするのはわたしの身体で、わたしではなかった。そいつは慌てて扉をあけるなり、マンションの鍵とスニーカー、靴下を、玄関に放り出した。小さなベッドから布団を剥ぎ、光沢のある葉を纏った女を抱くつもりで、顔面を押しつける。
抱き枕が果てた。
わたしはわたしでありながら、わたしになることはできない。神様から借りた身体を、常に誰かに又貸ししているような心地だった。わたしは頭のなかの深い溝の内側で小さな豆電球となり、真っ暗ななか、借主の一挙手一投足を手繰る。彼の邪魔をしないように、彼に邪魔をされないように、照らしながら、息を潜める。
1
黒いエプロンをかけた女性が、フラスコとろうとを組み合わせたようなガラスの入れ物に、蓮根の断面状のステンレスの板を慎重に滑り込ませた。透明な液体のなかを、糸のような煙が循環している。
顔を上げると黒板が二つ並んでおり、その器具を指すイラストの横には「Siphon」と書かれていたが、わたしはあいにくコーヒーにおけるそれについて詳しくなかった。検索するとサイフォンの原理が表示され、それから「コーヒーサイフォン」に誘導された。この項目では、物理現象について説明しています。コーヒーの抽出機器については——
壁際に並べられた赤色のタンブラーは、先週から二つ減っている。歩いて帰るには傘がなかった。かといって歩いて帰るほかなかった。グラスに入れられた大きなスプーンがガラスの形状に従って乱れて映る。
外の広場を往来する人々は、それぞれが鞄やフードで頭を隠し、影のない地面をアリのようにいそいそと歩いているのだろう。
目の周り。鼻から耳にかけてが、熱い。いつもだ。夢から醒める瞬間を知っている。熱に浮かされた夜をこえる先が曇りでも、頭は冴え、それは鮮明に、突然髪を一本抜かれたような鋭い痛みを与えてくる。あれ以来、常に熱いのだ。いつしかこれが体温になるのだろう。
「こちらよかったら。クリスマスブレンドのご紹介になります」
顔を上げると、黒いエプロンの店員がマスク越しに微笑んだ。柊を模したそのカードを光にかざすと、箔押しされた金色の枠に指紋が浮かんだ。
「どうも」
カウンターの、反対の角にいる若い男が、いまだにちらちらとこちらを見ていた。MacBookのワープロソフトかなにか。埋める黒の容積は、しばらく変わっていないように見える。じっと見つめ返していると、スマホで誰かと連絡を取りはじめたようだった。男は何か月間も人の周りをうろついておきながら、距離を詰めてくることはしない。こちらに気づかれないようにしようという緊張感すらなかった。彼はただそこにいる。わたしが目を合わせるまでは。
とたんに、暗がりのなかで背中をなでられたような悪寒がした。カードに付着した指紋の白い筋が、わたしに張りつく。胸の下側のほうだ。横隔膜。震えて、声が出そうになった。痛みどめの副作用ではなかったか。
冷めた紙コップのココアを飲み干し、席を立った。階段を下り、消毒液を手のひらにためたまま重たい木戸を押すまで、息を止めていた。カウンターの男が、背中に触れてくるのではないかと思ったからだ。
呼吸をしなかったおかげか、外の空気を吸うころには、雨はやんでいた。
ダウンジャケットを着たニット帽の人とすれ違ったあと、ビル壁面のガラス越しに視線が交わる。自動ドアを二枚抜けると、人だかりができたクリスマスツリーの前で、子どもが見えない敵と戦っていた。いくつものキーホルダーがついたポシェットをかちゃかちゃと振り回し、わたしの目的だった下向きの矢印を叩いた。
スーパーで一週間ぶんの食料を調達し、地下を通ってヒルズ方面を目指す。
日比谷線の改札の前を横切るとき、思わず目を逸らす癖がついていた。そのせいで視線の先に現れる、券売機。台に置かれたホットとアイスのカップがひとつずつ。カバンのファスナーを引っ張り、柄でもなくせかせかと改札を気にする、自分。の残像。
置いてきても置いてきても置いてこられないものは、いつからかわたしのなかにあった。
そうして引き返す、地上。
交差点を行き交う人々は、忙しなく歩いているように見えてときどきどこかで滞留していた。堰き止められた川が徐々に膨れ、信号が青になる。
再び放流される。わたしも流される。なか。根を張る、ただひとつの点。すれ違う。目は合わなかった。すれ違うというより、通り過ぎた感覚だった。わたしも立ち止まってみる。魚でなくなった。わたしたち以外は依然、魚のままだ。
しばらくして振り返ってみると、振り返って、見られた。そうして、引き抜かれたのは、わたしのほうだった。根を失った水草はただよい、次に絡まるまで泳いだ。
「あのなか、いくつあるんだろうと思って」
示された先は信号機だった。その電球の数は何らかの方法で計算できるのではないかと予感する。いまこのふたり以外の有象無象が泳いでいるという事実よりは容易に。
「教えましょうか」
「いや待って、答えを知ってる人がいると思うと数えたい」
そう言った彼が、再び目を細める。浅黒い肌から、いつか病室で見た横顔を思い出したものの、それは特に意味をなすことではないと自分に向けて言った。わたしのなかにも、もうないのだから。
「あ、変わる」と呟き駆け出した彼の背中で、蒼い光が点滅していた。吸い寄せられるように追いかけたはずが、群れに戻った魚は、もう見分けがつかなかった。
何かをするために、ずっと自分を焦らせている。
それは時に、眩しすぎるヘッドライトを見つめたあとの。目がくらむ。アスファルトの水たまりを見逃す。足を突っ込む——その瞬間に似ている。