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第6回 みたいな気分。

小説『蒼い殻』第1話はこちら。

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 美沙に尋ねられたことがある。

「陽向の髪はどうして明るいの?」

「いきなりなに」

 寝返りを打って美沙のほうを向くと、そんな怖い顔しないでよ、と笑われた。

「悪い意味じゃないよ。ただどうしてなのかなぁって」

「神奈川って茶髪いないの?」

「そんなことないよ。友だちにはあんまりいなかったけど」

「怖い?」

「いまはぜんぜん」

「怖かったんだ」

「うーん、ちょっと逃げてた。偏見だよね」

 しょんぼりしてしまった美沙にルームウェアのフードをかぶせる。

「座敷わらしみたい」

「はぁ? ひっどい」

「えー。会えるといいことあるんだってよ」

 かわいい。と抱き寄せたら、背中をひとつ叩かれた。ぴったりはめるように美沙の頭に顎を乗せる。いいなぁ、髪の毛、さらっさらだ。

「……目立ちたくないから」

 しばらくあとにそうつぶやくと、美沙がぴくりと動いた。うとうとしてたのか。

「……黒くしたら、顔が浮く?」

「おー、正解」

「顔見せて」

 腕をゆるめると、眠そうな美沙に見上げられる。ぱさり、と落ちた前髪を分けてあげて、しびれた右腕で肩を抱いた。

「陽向の目になりたい」

「美沙がこんな目つきだったら強烈すぎるっしょ。きれーな高い鼻してっから」

「違う。そっちじゃない……」

 うつむくから、また前髪が戻っちゃう。たまらなくなってぎゅうと抱きしめたら、耳鳴りみたいに自分の鼓動が聞こえた。

「わかる。あたしも一緒」

 だからここからはきっと、金木犀とチャーハンの匂いがするよ、と伝える相手がいなくて、困る。

 鼻歌に降りかかっていたシャワーの音が途切れ、ぱきっと扉のひらく音がした。

 橙色に設定されたLEDライトが、ジャージの上にこぼれた紅茶の香りをじんわりと広げる。なんせこの家、ティッシュがない。どこに隠しているのか、ゴミ箱もない。運よくポケットに入れっぱなしになっていたハンカチで押さえるも、匂いが移っただけだった。

 こんなところまでついてきてしまうほど、あたしはひどくふやけている。

 木をそのまま叩き割ったようにぐにゃぐにゃと曲がっているローテーブルの上には、リモコンひとつ置かれていなかった。ウッドコーンスピーカーやオーディオコンポが醸すのも、ほぼひとりで暮らしているという高校生の女の子の生活じゃない。あどけないのは、壁にはりついた大型テレビの足元に転がるバスケットボールだけだ。そっと拾い上げて、表面を親指で撫でる。その背後の抽象絵画。黄色やら青やら緑やら白の上で時折弾けるオレンジとは同じなのか、似ても似つかないのか。

「お待たせ、おねーさん」

 Tシャツ一枚の純はタオルでがしがし頭を拭きながら、上機嫌でリビングに入ってくる。ふん、ふふん、ふん、ふふんふん、というクラシックらしい音楽は、冷蔵庫のしまる音が終止線になった。

 口からペットボトルを離したのを見て、純に声をかける。

「ごめん、シャワーまで借りちゃって」

「いいけど、脱いで」

「は?」

「こぼしたんでしょ? 洗っとく」

 促されるままファスナーを下ろすと、代わりに新品同然の青いパーカーが飛んでくる。あたしが袖に手を通している間に、畳む前の抜け殻は回収された。

「髪乾いた?」

 戻ってきた純が、真ん前であたしを見上げる。伸ばされた手が、顔の横の空気を揺らしたとき。がちゃん、ばん、という勢いよく玄関の扉があく音に、心臓が跳ね上がった。ばさばさっと何かが落ちて、それに滑ったのか、「きゃっ」という声のあとに、ぶつかる音で壁が震える。そのまま足音が近づいてきて、ひらかれたリビングのドアが宙ぶらりんに揺れた。

 瞳の微動だにしない針金のような視線だった。ふわふわに巻かれた栗色の髪を、青光りが裏から透けているような白い肌がかぶっている。でもあたしが汗をかく間もなく、先にその人が申し訳なさそうに眉を下げた。

「やだもう、ごめんなさい! ちょっと純!」

「サキちゃんおかえり」 

「『おかえり』じゃなくて! また知らない人と帰ってきたの? いきなり連れてこられてこのお姉さんもびっくりしてるでしょ!」

「暗いなかひとりでほっとくほうが危ないよ」

「そうだけど、そうだけどさぁ」

 姉妹なのだろうか。サキちゃん、と呼ばれたその人は、「ほんとにうちの純がごめんね!」とまた頭を下げる。それでむしろ心臓が縮みそう。謝罪と言い訳と脱走計画で頭が絡まってつっかえる。金縛りにあったようなあたしを連れ戻したのは、サキさんの「あーっ!」という声だった。

「お姉さん、写真の人だ!」

「あ……はい」

 はじめて会った気のしない距離の詰め方だった。この人と同じ空気を吸っている、と漂う爽やかさで気づいたとき、それを煩わしく感じる人はいないんだろう。

「わぁ、ほんとに顔綺麗なんだね。ていうか、身長すごい。一七〇あるんじゃない? あなたがモデルになればいいのに」

 思わず、顔に余計な線を刻んでしまいそうになる。すると、「へぇ、やっぱり嫌なんだ」と、オレンジがかったくちびるが、ほのかにやわらいだ。

「でも、そうだよね。やりたいことなんて、人生で触れてきたもののおかげで見つかる偶然の産物だけど、できることは最初から決まってる。それが一致してるんだもん、素敵よね」

 あたしはサキさんと見つめ合う。シトロンとチークウッドの香りが、胸になつっこく絡みついてほどけない。まぶたの裏が見えているみたいだった黒い縁取りが、す、と消えていく。迫りも遠ざかりもしないほどよい温度で意識がほろりと崩れそうになったころ、純が「サキちゃん、サキちゃん」と肩を叩いた。

「サキちゃん、パスポート取りに来たんじゃないの? 新幹線、もう間に合わないよ?」

純に言われて「え?」と腕時計を見たサキさんが、大きな目を見ひらいた。ジャケットの袖から覗くブレスレットが、ちゃりちゃりと音を立てて揺れる。

「ああぁっ! ヤバいヤバいヤバい無理! お母さんもう行くね!」

 お母さん。という単語に気をとられているうちにサキさんは引き出しに飛びついて、上の段からあけたりしめたり。紙やら本やら「頭が働くチョコレート」やら、慌ただしくかき集めて、どたどたと走っていく。

リビングを出る直前で突然つんのめると、サキさんはきゅっと床を鳴らして振り返った。

「お姉さん! もう暗いんだからひとりで出歩いちゃだめだよ!」

冷蔵庫のものは好きに使っていいからー、と叫びながら遠ざかっていく背中。立ち尽くしているうちに玄関のドアがしまって、潮が引いたみたいに静かになった。

「ごめんね、びっくりしたでしょ」

「いや……」

 放心状態のあたしを見て、純は眉と眉の間をぎゅっと縮めて笑う。

「何そのまぬけな顔!」

「お母さん? 若くない?」

「サキちゃんが十八歳のときに生まれたから、まぁ若いかも」

 十七たす十八で、三十五だ、とぶつぶつ計算している。

「あたし怒られないの?」

「なんで?」

「え……」

「なんで怒るの?」と純が首をかしげる。

「悪いことしなきゃ怒られないよ」

 宿題サボったとか、洗濯物畳まないで遊びに行ったとかさ、と、純は水たまりに弾けるおひさまの粒のような言葉つきで言った。

「もしかしておねーさん、何か悪いことした?」

 そういうんじゃないけど、いやでもそうかもしんないけど。そう繰り返すのがみっともない気がしてやめてしまう。あたしは普段どれだけ、なにも考えずにしゃべっているんだろう。言葉が追いつかないことを許すように、純はあたしの毛先をつまんだ。

「まだ少し湿ってる。乾かしてあげるからおいで?」

「え、ちょっと——」

「いいから」

 ソファーの前に座らされて、肩と純の筋の固い脚が触れ合った。ぶおー、という音で耳の奥がわんわん言ってあったかい。抱えた膝をじっと見つめていれば、おねーさん、という声に起こされる。いったい何をやっているんだろうな、あたしは。

「人ん家来ちゃったこと、気にしてる?」

 そう問われて「まぁ、うん」と目を伏せれば、髪を撫でていた指がかきわけ、やわらかに地肌を乾かした。

「いいんだよ、知らない場所なんだから尚更」

「何それ」

「ここがっていうか、わたしのいるところが? とまり木になれるとまでは言わないけど、おねーさんは別の世界に遊びに来たわけ」

 帰りたくなったら近くまで送るからー、じゃないわ、もう。のんきだな。

「どっちにしろ、わたしに見つかっちゃったんだからさ。とりあえず今日はここにいなよ」

 ははっと笑うから、あたしはこの気持ちごと洗われてしまう。ねぇ、と呼ぶ声が思い出されて、底を叩かれたように浮いた埃はいとしさの残りかすではなく、その下に実が埋まっているのだと、こそばゆい陽射しにあらわにされる。

「あー」

「何、あーって」

「ドライヤーされてるときって、言いたくなる」

 あたしはまた、あー、と声を出す。流れているはずのない音が耳の奥で響きだして行方不明にならないように。

 しばらく経って、喉が情けなく震えているのに気がついた。なんだあたし、泣いてんの。

 かちっと音がして、風がやむ。ドライヤーを片づけてきたらしい純は、そのままあたしのとなりに腰を下ろした。

「心が落ち着く音、流すね」

 スマホの画面を弾くようにスクロールするその微かな音のあと。海の声色は、さーっ、さーっ、と懐かしい。

 ふと純を見ると、あたしの頭に手を伸ばしていた。この子は人を撫でるとき、最初に二回、軽く頭に触れる。それからそっと、手を動かして。

 ほら、いまも。ぽんぽん、ふわふわ。ぽんぽん、ふわふわ。

 あたしの夜が、安らいじゃう。

 波立っていた心が穏やかになった。と思ったら、胸がじんわりと締めつけられる感覚があとからやってくる。自分がいまどんな表情をしているのかすらわかんない。頭と心が一致しないどころか、身体まで別々にされちゃったんだ。

 あたしの頭を撫でていた手は、いつの間にかやさしく背中をさすっている。

「芳川陽向」

 思わずそうつぶやく。ひなたさん、という声が鼓膜を震わせて、小さく頷くと視界の隅で純が微笑んだ気がした。年下なのに、あたしよりいくつも成熟している。

「おねーさんあったかいから、ぴったりだね」

「……指名手配されてるみたいな気分」

 口のなかがこわばった。この子と同じ歳のころからいままで、暗闇にはりつく無数の黄色い穴から縦長の黒目に睨まれているような、重すぎた隠しごとだった。なのにいまさら、灼熱した利己心が硫黄のようにふつふつと押し上がってくる。こうしてあたしはいつか、美沙を売ってしまうんだろうか。美沙と引き換えに誰かの気を引いて得たものに包まれて気持ちよくなって、死んだように自分を慰めるんだろうか。

「ひなたさん、いいよ」

 え、と声を漏らすと、純の心臓の音が聞こえた。

「大丈夫だよ」

 海底で丸くなっていたのに、心を抱きしめられる。ただもう、いまこの瞬間の空気を確保するのに、必死。胸の奥に引っかかっていた声が、小さく聞こえた。

 あーもうむりだ。ねむい。

「……聞いて」

 とく、とく、と、いくつも細胞が生まれ、泡のように泳いだ。

©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA

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