第7回 蒼色。

6
美沙といると、おじいちゃんにもらった私物のライカは、いつも光もれしているみたいに、まぶしくてまぶしくて。あたしは、プライベートでは横位置で美沙を写した。ふたつ横に並ぶ目が見た彼女をそのまま残すように。強がりで臆病で不器用でも、ほかの人にはぜったいに見せない、なにかがこぼれそうなほどやわらいだ笑い方をして、美沙はフィルムを焦がしていた。
あたしたちは名前や誕生日にはかすりもしない文字列でできたアドレスでメールをしていて、
【焼きそばパンばっか食べてたら死ぬよ。今朝時間があったからお弁当作って来ました。ロッカーに入れておくね。】
なんて授業中に届いたときは本気で不整脈を疑った。ニュースを聞き流しながら「いつ渋谷に引っ越そうか」とからかった秋と冬の境目だった。
美沙が珍しく寝込んだときは、ゼリーやらスポーツドリンクやらと一緒に「お礼とかいいから寝てて」と手紙を入れてドアに引っ掛けてきたくせに、なかなか電車に乗る気になれず、寂しくなったら言えなんてふざけたメールを送って、中目黒の高架下にできたカフェで宿題をしていた。三十分ほどで美沙は連絡してきて、暗いから早く帰れとあたしを叱ったけれど、本当は心細かったらしく、その日はあたしの腕のなかで眠った。うざがるから離れようとすると「こっち来てって言ってんじゃん……」とパーカーを握ってくるせいで、水滴が蛇口からひとつずつ落ちていくように、そのたびにほのあたたかい爽やかさが湧いた。
好きなときに好きな場所へつれて行ってあげることも人前で特別扱いすることもできなくて、友だちとしておかしくない頻度で家を訪ねては、データを残さないために自家現像したふたりの写真に埋もれる美沙を見下ろした。平たい左胸から腰にかけて染みついている、生まれつきの広い痣。それをなぞられて湯気の立ちそうな息を漏らした彼女は「ミサ」で、相変わらず大人でも子どもでもなかった。
あたしには認めてくれる人よりも止めてくれる人が必要だった。歩きだせば自分でもどこへ行ってしまうかわからないあたしの留め金は美沙だった。美沙がいれば、あたしは心がどこを飛んでいても、両手に尊いものをぎゅうぎゅうに抱えて吸い寄せられるように戻ってこられた。
それなのに、ふたりそばで二十歳になることはできない。美沙が傷つかないためなら、あたしはこの目さえ差し出せると、心から思っていた。なのにあたしは、最後のとき、どう言えば美沙を傷つけられるか、そればかり考えていたように思う。
ちょうど前のアシスタントの代わりを探していたときに、大学の後輩なんだと録音部の知り合いに頭を下げられた。それで新しく受け入れたアラサーの男は、何かにつけていやらしい目つきで嫌味を言ってくるような奴だった。あれは、カマをかけただけなのだろう。最初に聞かれたのは、あたしがするのか美沙がするのかという、慎みのかけらもない内容だった。でもネットからそれらしいものを抽出してきたような噂をぺたぺたとはりつけられると血の気が引き、あたしは彼の戦場で撮ったような美女のモノクロ作品を宣伝して歩いたのち、言われるがまま自分はあの場所から去った。美沙には、思ったこともない嫌いになる理由を告げて。
もう幼くはなかった。だから誰かが身を引いたところで静まる保証がないことも知っていた。だけど、ほかに美沙を守る方法を見つけることができるほど、大人でもなかった。
だからいま、あたしは美沙のそばにいない。だった、だった、と、過去形のキリトリ線が生えてくる。あたしのやりたいことは、本当に必然だったんだろうか。あたしと海で出会ったせいで同じ岸に立ってしまった美沙は、偶然を見つけられているんだろうか。
「ねぇ陽向、なんで『対岸の大人』なの? あのとき中学生だったじゃん」
「じゃあいつから大人になるの?」
「二十歳でしょ?」
「美沙ちゃん美沙ちゃん、それは違うのよ」
「はぁ。なぁに、その顔。うざ」
「まーまー、聞いてよ。二十歳ってのはさ、お酒が飲めて、たばこが吸えるだけなのね? んで、もういい加減大人になりなさいってこと」
「んー、それはそうかも」
「でしょ? あのときあたし、美沙が何歳なのかわかんなかったわけ。ネンレーフショーっていうか、大学生ですって言われても、へぇ、って感じだし、でもときどき、くしゃーって笑うじゃん。だからこの人は一生、大人にも子どもにもなれないんだなぁって」
「ふうん、なんかそれ、カワイソウな気がするけど、別にいいや。どっちにしろ陽向が育ててくれるんでしょ? 私最近、ドラマみたいな妄想をするようになっちゃったの。自分がそんなことしてるなんて恥ずかしくって『陽向のせいだ』って思ってたけど、最終回はいつも日常なんだ」

7
白い帆のようなカーテンが揺れて灰青の空が滑りこみ、光の音が聞こえていた。まだ身体とつながっていない意識を軽く持ち上げると、スピーカーがいまだに波を流し続けている。身体があったかい。このまま動かないでいたい。
ソファーにもたれて目をとじたまま、腕のしびれを消す名目で時間を消費していると、すー、すー、という規則正しい寝息に気づく。
夜の仕返し。膝に乗っている頭をひと撫でする。綿のようにふわふわで、指を入れると先まですっと流れていった。
そっか。あたしは夜を終えてしまうんだ。
そのとき、「うーん」と声がして、手をぎゅっと握られる。肩に反対の手を当てて、そっと揺らした。
「ねー起きて」
「うー、おねーさん」
「もう朝だよ、風邪ひくよ」
そう言うと、ぱちっとひらかれた目が、素早く視線を走らせた。
「え、いま何時?」
「朝の五時」
「うそ、ヤバいじゃん」
弾かれたように起き上がった純が、ソファーの上でくたっとしていたウィンドブレーカーを引っ掴む。それ、群青色だったんだ。と回らない頭で考えているあたしの腕をとった。
「ちょっと……」
純に立たされ、そのまま玄関に歩きだす。ひらいた扉から流れてくる空気は、ぬるまったくも小気味よい。身体じゅうの関節が、軽くしなやかに動く。
遠くの空が白みはじめていた。スニーカーのかかとを引っ張って足を滑りこませた純は、一段飛ばしで階段を降りていく。世界が動きだすより、早く駆ける。徐々に上がっていってしまう呼吸で飲みこむのは、爽やかな秋の最初。
地面に追いつけば、純がどこからか自転車を滑らせてくる。かしゃん、という音。ここ、ここ、と荷台を叩く声。
おまわりさんに見つかったら怒られるなと思いつつ、言われるがままそのうしろに飛び乗った。
ぐん、と自転車が動きだす。
振り落とされないように、純の背中にしがみつく。レモンの香りだ。風が、強い。家まで案内しろと言われ、踏切をまたぐ橋を越え、右、左、次は右。
藍色の空に、ブラシでこすったような雲が、ぼんやりと浮かんでいた。陽の光がにじむ。青の範囲が、広がっていく。
家に着くころには、世界はほとんど明るくなっていた。自転車から降りた純が、ひーひー言いながら肩を上げ下げしている。
「ひなたさん、朝……」
顔を上げた純が、く、と目を合わせてくる。
「ひなたさん、朝だめだから。早く帰らないと」
信じらんない。この子、あたしのくだらない「嫌」のために、走ってくれていたんだ。違うな。昨日まで、けっこーな重要事項だった気がする。なんにも変わってないはずなんだけど。
泣きたいのか笑いたいのか、わかんなくなる。純の頭に、手を乗せた。
「ひなたさん……?」
ぽんぽん、ふわふわ。ぽんぽん、ふわふわ。
「ごめん、なんか……意外とへーきかも」
純の表情がみるみる明るくなって、そこにちょうど、陽光が射す。
「よかった!」
心の奥で、すとん、と音がするのがわかった。カメラを取ろうとした手は、むなしく空を切った。そのとき純の手が近づいてきて、思いっきり前髪を持ち上げられる。え、恥ずかしいんだけど。ぜんぶを見られた気がして固まっていると、純はもとに戻して二度撫でた。
「ひなたさん、ひなたさん」
「何?」
「信じたいものを信じたらいいよ」と純が笑う。
「やりたいことをやって、見たいものを見たらいいよ。食べたいものを食べたらいいよ」
好きな人を、好きでいたらいい。微笑む純は、まっすぐに遠くの空を見た。
「また歩けるようになるまで、一緒にいてあげる」
ゆっくり、でもたしかに、とくん、とくん、と胸が波打ちはじめる。心が帰ってくるのを感じた。喜びも悲しみも悔しさも愛情も、おぼろげで混沌としていたものが綺麗にふちどられてそれぞれひとつの色になる。それが弾んで、残りのモノクロが一カ所ずつ淡く染まって。
純がへらっと頬をゆるめた。それにつられてあたしも——
「あ、笑った」
風が吹く。ふたりの間を、するりと抜けていった。
今日は何色の風を、空を、あたしは。

©︎2020 Nanako Otake / Studio AOIKARA