第5回 生まれなおすの。
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一目見たときから、美沙をつくるぜんぶがあたしにとって完璧だった。
その日、被写体は美沙だった。
たまたまだ。仕事だから。
あたしは普段どおりカメラを向けて、「可愛い」と「綺麗」をぽんぽん放っていた。いや、しょーじきな話、いつもとおんなじ顔をして、空を歩いているみたいな気分でいた。何年も闘病していた美沙のお父さんが数日前の期末試験の最中に亡くなったのだと、美沙が先生に声をかけられて教室から消えたことで気づいていたから。
それでも来ると思っていた。いままで美沙はあたしの画角に入ったこともなければ、誌面に載ってもいつも数合わせだった。だから、はじめてフォーカスが合うとなれば、有無を言わさず引きずり出されるのだろうと。
「いくらなんでもかわいそうですよね」
六つ上のカメアシは眠そうにMacBookをつないでいた。機材を抱えて初夏を走り回りシャツに汗がにじんでも、すれ違えばラベンダーみたいな品のいい香りがする。誰もいないロケバスのスモークがかかった窓のそばでは、地毛の茶髪がよく映えた。
「彼女、お誕生日だったんでしょう?」
「……あぁ、七夕」
カメアシは、そうなんだ、と言うように、一度静止してから頷いた。
「顔には出してませんけど、ほんとうはつらいんだろうな」
「え?」
「いや、陽向さんは目がいいから」
僕には見えなかった、と純粋に微笑む。嫌味の一切含まれていない声色に、毎度安心させられていた、のだけど。でもなぁ、と伏せられるまつげに、思わず身構える。
「親父がそうなったら俺、どうするだろう……」
そう言う声は少し愁いを帯びていた。何も聞かされていなかったあたしは気づかないふりをし、巻きこんでしまったプライベート用のフィルムを引っこ抜いた。
「伊月さんは大丈夫」
「そうなんですか? あ、学校も一緒ですよね」
「あの子は今日、生まれなおすの」
ふと、いまよりもひとまわり幼かった美沙の背中が蘇った。
顔を上げたカメアシと目が合う。いちいちパーツがでかいな、と思った。カメアシは何も言わなかった。懇願、の、ふた文字だけが浮かんで、流れた。
「だめだったらまたやればいいよ。どうせあたしも夏休みだし、暇だし」
「うそばっかり。夏休みなんてあってないようなものなのにそんなふうに言うなんて、珍しいですね。まぁ……俺ならいつでも呼んでください」
瞳に光が入ってつるりと震えた。うそはどっちだよ、と、胸が凪いだ。
ファインダーに美沙を収めない。七里が浜に移動したとたん、あたしはシャッターが切れなくなった。生まれなおす、なんて言ったせいで、出会ったのと同じ海が、空を吸ったみたいに青かった。
トランスルーセントをとおしたやわらかな光に浮かぶ美沙に息切れする。美沙は冷えた目線を向けながら、かすかに左の口角を震わせていた。息の詰まりそうな表情が、満ちては引いて。
だから乱暴に連写する。ごめん、と聞こえるシャッター音は、きっとあたしの声。
拙い瞬間を何枚も重ねると、過剰な自信は熱い砂浜の上で氷点下にしぼんでいった。いっそ、あたしがすっぽかしちゃえばよかったんだろうか。そう思うたびに、つられてあたしの口角も震える。
「美沙さん」
まるで壁打ち。
「美沙さん」
答えて。
あたしの、誇り。そういうものをひとつも持たないまま、こんなところまで来てしまった。ほんとうは最初から、あたしは誰かを道連れにするつもりでいたのかもしれない。そうやって浅はかにそそのかして同じ砂を踏ませてしまったんだとしたら、美沙は生まれ変わっちゃいけないんじゃないか。
そうして、美沙さん、美沙さん、と繰り返したあるときだった。美沙の下まぶたがぴくりと動いて、少し苛立ったような顔になった。それから、ほんの一瞬、視線があたしの足元に落ちてきた。スローモーションでまばたき二回。瞳に映る色は緑。新品のエアマックス。
あぁ、そっか。似たような色だった。
思わず、いやだなぁ、とつぶやく。目の前で震えているのが、否定も肯定もされたくない天才のわがままを、ぜんぶぜんぶすくい取ってしまう美沙だから。
そばにいたのは中三の冬の数時間だけ。けどさ、あんたってほんと変わんない。いつまで経っても大人。あたしにしか見つけさせない顔でしょ、それ。
レンズに一気に光が入る。
右手の親指が攣りそう。ちょっと気になっていたアイザワも、腰巾着みたいなカメアシも、砂に覆われて、もういなかった。かわいらしい強がりの仕方も忘れたあんたの気持ちなんて、あたしにしか伝わんない。どうしたって、美沙と出会うのにいちばん自然な道を、あたしは手繰り寄せてしまうんだ。
慢心。この場で、この子を泣かせてあげられんのは、あたしだけ。
ほんのわずかに、顔を上げる。直に目が合う。
「ミサ」
瞬間の、表情。
知ってた。今日はあたしたち、またここに会いに来たの。
美沙につられて、あたしまであたたかく泣いた。
この日。光が消えるその寸前、手をとったのはどちらからだったか。
ずたずたにされたローファーなんかで帰らなくていい。あたしのスニーカーをあげる。
©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA