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第17回 重なる。

小説『蒼い殻』第1話はこちら。

  3

 かつかつと風が割れました。やたらまぶしく象られ、あなたはランウェイを転びます。見上げているのは、あたし。

 かぽかぽ、と、夜の空気の音。手から滑り落ちたスマホをよける。顔面に吹きつける加湿器の蒸気。ぼんやりと電気の光を飛ぶ青い鳥はしあわせか。

 裏側に引きずられていく美沙のしみは、透明。

 わかっていた。わかっていて検索した。一四〇文字さえも使わずに鮮烈な画として晒されて曝される無法地帯。

 あの子、けっこーショック受けてるみたいよ。なんて。たかだかあたしが業界にいた時代のオシリアイの分際で、ご丁寧に連絡してくれなくっていいのに。言わせる気? 当然でしょ、なんて寝言を、あたしに。

 あたしだけが触れたものが、ない。こうやって胸に妬ましさが焼きついて焦げた痕が残るとしても、もう美沙と一緒の模様にはならない。

 そんなふうに思ってるあたしには、美沙にやさしくする権利なんてないわけ。だからさ、やめてよ。ほじくり返さないでよ。あたしのなかに、ひそまないでよ。

 ふがいないまま、遠くでもがいていたくない。こんなにも、寄り添わせて、と言いたいの。美沙に、向けて。自分の、ために。

 ぽーん、と間抜けな音が鳴って通知に元カメアシの名前が入りこむから即機内モード。あたしの復帰をダシに押し出されようとしてる新人のモデルがどうたらこうたらカワイソウ。御託並べられたって戻れるわけないじゃない。

 あぁ、もう、この際だから。あんたのせいにしてもいいかなぁ。

 死にたえろ。ぜんぶ、ぜんぶ。カタカナの、機械の言葉。

  4

 となりを歩いている純が、もうすぐまたあおくなりはじめるね、と言った。

「ひなたさん、色が変わるところを見るの、久しぶりでしょ」

「そうかも」

 この先、景色がだんだん青みを帯びて狭くなっていくことにそう感じるほど、あたしの意識が遠くへ行けることはあるんだろうか。

「ごめん、また付き合わせて」

「嫌なら嫌って言うから、わたしは。だから撮れなくても一緒に行くよ」

 くすりと笑い、レモン味のグミを口のなかに放りこむ。いる? いらない。といういつもどおりのやりとりをぼんやり繰り返していると、ていうかさ、と手元を指さされた。

「それ、いつもと違う?」

「お、わかる?」

「うん、シャッター音が小さかった」

 一眼レフからM型ライカに戻してしまった。ストロボを取りつけても棘のある光は放たず、ファインダーは倍率を変えるレンズを通さないから、もとのままの縮尺の世界が見える。その代わりにレンズによって大きくなったり小さくなったりする細い線の枠のなかに収まるものは、水は水の、肌は肌の手触りをしていた。そこに何色もぶちまけてしまったあたしには、もう白みがかった薄い色しか残されていない。

十七歳の誕生日を目前に親を亡くしたから。いらないものがあるという不完全さだったから。人の手によってぼろぼろにされたローファーを砂浜に投げ出して、座りこんでいたから。

「つけこんだ、のか」

「それで誰かに迷惑かけた?」

「え」

あっさりそう言われて横顔を見た。

「下賤はばれるから下賤なんだよ」

 げせん、なんて聞いたこともなかったけれど、純の発し方で漢字に変換される。顔がかっとなったのは一瞬で、別に居心地悪くはならなかった。純がふつうのことみたいに言うから。でも嫌だ、そんなん。さすがにそこまでじゃ、ない。と思おうとしているところが、卑しいのか。

「あたし、こんなに欲まみれだったかなぁ」

 目の前をひらりと泳いだ花びらを、純はてのひらに乗せようとした。けれどそれは直前で風に煽られて、指の間をすり抜ける。おもしろくなさそうに握ったりひらいたりして、純は手を下ろした。

「ほしがらないふりばっかり続けて、自分の過ちを経験だって言い聞かせる苦労をするよりいいんじゃない」

「なんか、そういうとき純はそれも経験だよって言ってくれる気がしてたんだけど」

「人に言われるのと自分で思うのは違うよ。わたしがぜんぶを傾けて何か言っても、相手がわたしの重みを感じとれなかったら無責任に聞こえるだろうし。他人の言葉をどれだけ自分のものにするかなんて、みんな違うでしょ」

 薄い和紙に覆われたような空を、建物が邪魔するところまで来ていた。純はあたしの前を横切る小風を破いて、階段を登っていく。

「それなのに、純は誰とでも同じだけ悲しくなったり、苦しくなったりするわけ?」

「そうだよ」

「なんで?」

 踊り場で、ぴたりと立ち止まる。コンクリートは砂をまぶされてざらついていた。

「すべての人に同じ顔をして差し伸べた手を握ってもらおうなんて、傲慢だ」

 背中を向けたまま、言われる。

「……あんたにはさ、あたしが『下賤』に見えてる?」

 純は答えてはくれなかった。幾度も空気を飲みこんでしまう。あたしがそうして突っ立っていると、気づけばくるりと回って腰壁の反対側にいた。

 あとを追い、焦りを覚えるほど沈黙している部屋に入る。中途半端な気温に暖房を入れるのをためらったからか、どことなく冷たいような気がした。ラックの上に展示するように並べられたCDは、表面がかすかに白く埃っぽい。

 ぴ、ぴ、と洗濯機のボタンを押す音が聞こえている。シンクのなかにお皿が一枚、水を溜めたまま残されていて、片づけてあげようと蛇口を上げると、カウンターの上にレモンが並んでいるのが目に入った。

「いつもは第一日曜日に持っていくんだけど、今月はまだだから、それは諦めて解凍してるんだ」

 いけないことをしていたのがばれたみたいに振り向いてしまう。純はドアのところにもたれていて、そのまぶたにわずかな影がさした。流れてきてそのまま引き波に連れていかれてしまいそうで、水を垂れ流していた蛇口をしめる。

「そうなんだ。誰かにあげてた? これからは多めに渡そっか?」

「小学校の修学旅行。同じホテルに来てた別の学校の人が、さっきまでふつうにしてたと思ったら夜になって救急車で運ばれた。それが彼。わたしは野次馬のひとり」

 あぁ、そっかぁ、って感じ。と純は力なく笑った。思い出せないんだけど、ぜったいどこかで会ったことあるんだよねぇ、と話してくれたときのように、純は何もない天井を仰いだ。

 その姿が、見知らぬ彼と、重なる。

「忘れたくないと思えば忘れずにいられたはずなんだ」

「うん」

「ひなたさん——」

 残しておきたければ残しておけたはずなんだよね。

「それってさぁ、やっぱり自分もろとも消されたって思っちゃう?」

 視線がぶつかる。背筋がぞくりと冷えて、思わず濡れた手で髪に触れてしまう。もしかしたら、いや、もしかしなくても。なんのせいだろう、と考えたがるあたしの脳さいぼうは、はぐれ者を気取っているだけで案外素直なかたちをしている。

 耳鳴りがはじまって溺れてやまなかった。消されたんだ。黒ずみに近く痛々しかった蒙古斑が。あれは、だれ?

 どうよ。察しはいいつもりなの。

「……でもあたしは、純に美沙のことをしゃべっちゃったわけ。だから……ちっとも関係ない人のたわごとに、しなくちゃいけないから、もう、会うつもりとかないから……」

 から、から、と、もはやどこにかかっているのかわからない言い訳を並べていると、純はとっても自然に、なんのことだろう、みたいな顔をした。でもあたしが呼吸の音が聞こえそうなくらいたっぷりと沈黙に身を潜めてしまったら、何歩か数えるように近づいてきて、レモンをひとつ握った。握って、すうっと皮を嗅いだ。そして、これはもうだめかな、と言った。

「……いっそのこと、嘘をついてみようか」

 潰れないくらいの力が、くっと込められる。胸が斜めに、知らない締めつけられ方をした。

「ひなたさんは、もう何も持ってないんだね」

 あなたには、いまでも手にしているものがある。

「それってすっごく気の毒だ」

 だから、哀れではないよ。

「……意味わかんないんだけど」

「伝わらない?」

「伝わるけど、わけわかんねーよ」

 純の目に涙が宿る。彫刻のように青ざめて、でも口元をほころばせていた。

「自分のこと、人格的に低級だと思うんでしょ? 何いまさらわたしや伊月美沙で気分よくなろうとしてんの」

 数秒間、そっと目を細めて、それから純は、あたしにウィンドブレーカーをかぶせたときのように、見守るような視線を向けた。あたしと純の身長は一緒じゃない。それなのに目線の高さが揃っているのは、純が一段上に立っているから。

「ふてぶてしくしあわせになってくれ頼むから」

 心のどこかにピントが合う。ひなたさん、こっちを見て。伸びすぎた前髪を撫でられる。熟れすぎてしなびた匂い。二度ほど、鼻がつんとした。

©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA

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