1. HOME
  2. お話
  3. メインストーリー
  4. 最終話 檸檬色。

最終話 檸檬色。

小説『蒼い殻』第1話はこちら。

  5

 青黒い空の裾が、遠くの陸橋の隙間で銀色に光りはじめている。そこからならば苔むしたように見えるのであろう広さのなか、まばらに緑の砂利道を、後ろめたい場違いな感じのまま歩を進める。

 記憶にない光景がうららかに頭のなかを巡っていた。引き波の上にふわりと波が折り重なり、吸いこまれては赤になる。足元の歯がゆいふらつきに沈みつつ、こうしてサンダルに触れている指先が痺れた。

 使用停止中の遮断機にかけられた鉄パイプをまたいで乗り越える。

 日の出とともに体温が上がっていく。夏を待っている音がしていた。木張りの建物をいくつもかわして県道を渡り、マンションのある住宅街に入る。さびだらけになったトタンの集会所を尻目に湾曲した路地を進んだ。用水路を流れる透きとおった水と草の匂いを嗅ぎながら、崩れたアスファルトのかけらを蹴り飛ばす。

 マンションを囲う白いフェンスに、サキちゃんは寄りかかっていた。

「夜ご飯一緒に食べようって言ったのにー」

 もう朝だよぉ、とふてくされている横を通り過ぎる。

「自転車取りにきただけだから」

 サキちゃんはわたしについてきたりはしないのだ。スタンドを持ち上げる音が早朝の空気に消えた。からからと自転車を押して戻ると、サキちゃんはまだ同じ格好で立っていた。

「お墓は行った?」

「お母さんのほうは行ったよ」

「いいの?」

「うん、行かない」

 そっかそっか、と真顔で見てくるから、射とおされそうになる。

「夜の飛行機、とってあるよ。間に合うようにおいで。気が向いたらね」

 わたしが頷くと、サキちゃんは満足そうに笑った。

 駅前の地下道は不気味に青く煌々としていた。通り抜けて自転車を漕ぎだす。がたついた地面の衝撃に耐えかねて立ち上がる。

 遠目に高校を見ながら交差点を曲がれば、排気ガスの匂いを感じて息を止める。ふと左を向く。ガレージまで合わせるとコンビニ一・五個ぶんはありそうな、白くて四角いひなたさんの実家が道の反対側にあった。カーテンはすべてとじられている。

 わたしが会場に行ったのは、ひなたさんが在廊していない日だった。連名で出版された写真集にもその拡張版を謳う写真展にもセクシーショットは一枚もない。

 うそをつかずに生きていくことが、どうでもよくなったのだろう。きっとひなたさんは、変わっちゃったね、と言われたいと思っている。伊月美沙以外のすべての人から。

 数こそ増やさず押し寄せていた嫌悪も。波立つ反抗心も。『となりのひと』に夢をみていた。

 浜辺の砂が細かかったせいで、あのカメラは壊れたという。そのあとひなたさんがどうしたのか、詳しくは知らない。

 ブレーキが音を立てないようになんとなくびくびくしつつ、店の少し手前で止まった。

 道の真んなかで、ひなたさんが日の出を探している。

 わかっている。いま、どこにいるの、だとか。誰が一緒なの、とか。目を合わせたらきっと、同じことを尋ねるんだ、わたしたち。

 そうしたら、ひなたさんはわたしを使いたくなるだろうし、わたしはひなたさんの世界がほしくてたまらなくなってしまう。おそらく明度は違うのだから。

 突然、自分に快感を強いるような乾いた馬鹿笑いを、思い出せなくなった。

 裏口に回ると鍵はあいていた。ぎし、と床に土踏まずを押しつけながら厨房に足を踏み入れる。

 山積みになったレモンの、いちばん綺麗なひとつを選んだ。

 どうも五感がすっきりしていた。坂を踏むペダルはそれなりに固かった。粉々に砕けた点字ブロックが前輪に刺さる。向かい風に自転車を捨てて、橋の欄干まで駆けていく。

 傷のないレモンが握られて、ひんやりと膨張した。思いっきり、投げつける。遠く遠く、空にぶつかる。

 殻が弾ける音がして、それからぱらりと、みなもに溶けた。

©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA

関連記事