第1回 嫌になるほど、蒼い。
風見 純
手を離した。風は吹かなかった。始発電車が置き去りにした焦げ臭い空気の衝動だった。
雲の向こう側がほんの少しだけ霞んだとき、焼けた空がゆらめいた。スニーカーの位置を落ち着かせるふりをして、とんとん、と朝を蹴る。
どこもかしこも錯視だけだ。空にぽつぽつと穴をあける白が、誰にでもおなじように見えているとは信じていない。ただその呼び名だけで、視界を共有しているのなら。
心でどんな風を吹かせていても、罪に問われることはない。
ほんとうにありがとうね、と目の前の女の人が瞳を濡らす。震える声は微笑の隙間からにじんで、こぼれたひとすじを拭ってあげれば、小さな前歯が顔を出した。
「みつきさん、元気でね」
「うん、すなおも」
手を振り去っていくみつきさんの背中が、日陰を抜けたとたん朝陽に照らされる。
あぁ、きれい、だ。
みつきさんが地下道へ消えるのを見守ってから、わたしは昨晩の雨できらきらと湿っている住宅街を引き返した。濡れた草の匂いがくすぐったい。ははっ、と声を出すと、青いフェンスのなかにぽんとゴミ袋を放ったおじさんが、眉根を寄せた。
みつきさんは、さんにんめ、だ。
バスパンのポケットから取り出したスマホのロックを解除すると、色白の女と目が合った。右半分が着衣の彼女、左半分が裸の彼女。つぎはぎにされた二枚の名画を見たら、きっと怒る人もいる。ごめんなさいね、おもしろがってるつもりはないのだけど。心のなかでそう言って、電話のアイコンをタップした。軽くなった左脚を前に出し、ぐ、と大きく、ひとつ進む。
二度の呼び出し音のあとに、淳は出た。寝起きの少しかすれた「おはよう」にくすりとして、おはよ、と静かに返す。
『なぁ純、今日はどうだ? どんな匂いがする?』
「アスファルトと雑草。湿った匂いがする」
『そうか。そういえば夜、雨が降ってたもんな』
こほん、とひとつ咳払いをして、淳は息をついた。電話を当てた左耳がぺたぺたと暑い。
『それで、おれになった感想は?』
「日曜、行くから。そのとき話す」
『あぁそう。とにかくさっさと思い出してくれよ。こっちまで気になってきちゃった』
耐えかねて、一瞬、ぴ、とスマホを浮かせる。涼しさを入れてから、またすぐにふさいだ。
「出てきそうで出てこないんだよ。でもぜったい、淳のこと、すごく前に見たことがある」
『ほんとうなの?』
「うん」
『なら、楽しみにしておくよ』
横を伸びる線路の上を、金切り声をあげて電車が走っていった。前髪を抑えたけれど、襟足の毛一本なびかない。みつきさんを乗せて、遠くへと消えていく。
『す、お……だ——』
「ごめん、Wi-Fiがだめみたい」
電話口からがさがさと音がして、ふうっと空気のゆれる音が、少し経ってから聞こえた。
『すなお、朝だ』
線路の向こう側の建物でいっとき遮られた光が、また溢れ出してぬるりと頬をなでる。
「もう家に着くから、またね」
一段目に、かん、と足をつけると同時に電話を切った。時折お日さまの届かないコンクリートの壁の内に隠されながら、一歩一歩踏みしめて四階まで上がる。朝焼けに背を向けているのにつやつやと光っているドアをふたつ通り過ぎ、角部屋の前でひと息ついた。遠くの緑からさわさわと音が聞こえてきそう。目を細めると、空との境目がはっきり見えた。絵筆に水をつけてちょんちょんとにじませたところで、どうせもとの色の面影は残るでしょうね。
この街の空気は、嫌になるほど、蒼い。
第2回:2020年9月13日(日) 12:00 公開予定
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