1. HOME
  2. お話
  3. メインストーリー
  4. 第12回 無難に。

第12回 無難に。

小説『蒼い殻』第1話はこちら。

  5

 知らぬまに、金木犀は蒸発していた。

「そういえば今年嗅いでないかも」

 サキちゃんはそう言って、ジャスミンティーがはんぶん残ったカップをローテーブルのソーサーに置く。

「フィレンツェにもあったでしょ」

「ぜんっぜん気づかなかった。なんなら銀木犀もあった。よゆーであった」

 ふーん、と答えつつ雑誌をめくる。顔だけ太っただの黒くなっただのネットで騒がれていたけれど、ファッション誌ではまぁいい感じに加工されていること。

「じゃあ鼻がおかしいのか、それとも頭か」

「ねー、もうちょっと敬いなさいよ、お母さんなんだからー」

「あぁ。設定ではね、お母さんってことになってたね」

「ひっどぉい。泣いちゃうぞー」

 ひえーん、という意味不明な効果音つきの泣きまねをしてくる、元近所のおねーさん。勢いよく風を吹き出している暖房が暑苦しい、というよりうるさい。手を伸ばしてリモコンを取り、下向きの三角を四回押した。やめてよ寒い、とクレームが来たので少し戻す。スピーカーから流れる『献呈』に雑音が混ざらないぎりぎりの強風。

「別にやめてもいいんだよ、いますぐにでも」

 どうせわたしを手放せないのだ、この人は。わたしはサキちゃんが実家に帰らないためにふさわしい口実だ。飛行機が着陸するのが羽田だろうが成田だろうが、純が待っているからと東京を素通りできる。

「むりむり。あたし、あなたのことほっとけないもん」

「そう」

 ソファーの背もたれの隙間に手を突っ込むとひんやりしている。サキちゃんは冴えた目をして、おそらく間を持たせる音楽よりもわたしがジャスミンティーの最後のひとくちを飲みこむ瞬間に耳をすましていた。

「そろそろ行こっかな」

 サキちゃんがティーカップを持って立ち上がる。

「たかが十分のために帰ってくる必要ないのに」

「うん、次は来月ね。イングランドのときは、お土産は紅茶だよね」

 わたしの頭に二度触れた手をふわふわと動かすと、サキちゃんは「またねっ」と去っていった。

 わかってはいた。サキちゃんがわたしに注ぐ温度は親と変わらぬそれなのだ。利害の一致の横にきれいごとを並べても、どちらが先なのかわからない以上嘘にはならない。

父親が家に帰らず不倫を繰り返し、地元に帰って入院していた母親が死ねば。

 サキちゃんにとって、わたしは気の毒な子なのだ。無難に。

 しばらくぼうっとしたのち、雑誌を持って街に出た。重く下降してくる雲は、わざわざ見上げなくてもそこにあるのだとわかった。雪置き場になりはじめている歩道を歩く気にはなれず、赤茶けた車道をべちゃべちゃと踏みしめて進んだ。

©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA

関連記事