第23回 軋む。
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久しぶりに真奈に返信すると、授業中にもかかわらず校門の外まで駆けてきた。
「いつからそんないけない子になったの」
「みっちゃんが教えたんでしょう?」
うふふ、と接近してくる真奈の頭に手を置く。頬にぽつりと白いにきびができていた。
「でも自習だから大丈夫だよ。みっちゃん、どうして学校に来てくれないの?」
文系だから同じクラスだよー、と晴れやかな顔になって、近所のスーパーの石鹸売り場のような香りを漂わせた。
「なんかあったかいから、めんどくさくて……明日から行くよ」
「あはっ! あったかいから嫌になっちゃったの? それは夏になったら大変だねぇ……」
午前の匂い。柵の向こうの校庭から砂が風に吹かれてきて真奈の背中を汚した。
「昨日、陽向さんと喧嘩しちゃったんだって? それで落ち込んでるのかと思ってたよ」
「なに、喧嘩したって。誰から聞いたの?」
「夕方お店に行ったら陽向さんが言ってたよ。香凜ちゃんに『しっかりしろや!』って怒られてた。だからわたし、夜の九時ぐらいにみっちゃんに電話したんだけど、気づかなかった?」
「あぁ……電車乗ってた」
「そっかぁ。それはごめんね」
なんでもないみたいに無邪気な顔をするけれど、始業式の日から毎朝うちの前を行ったり来たりしていたのを知っている。だから、もしかしたら、と思って真奈に会いにきてみたのだ。
「喧嘩はしてないよ。わたしが一方的にいろいろと言っちゃっただけだから、ひなたさんは悪くないよ」
わたしが言うと、真奈はゆるりゆるりとまばたきを繰り返しながらその隙間に用心深い瞳を覗かせた。
「そうなの? 何を言っちゃったの?」
「ひなたさんのひなたさんらしいところを責めた」
噛み砕くように少しの間うつむいてから、真奈が曇りのある張り詰めた顔をする。
「うそだよ。みっちゃんはそんなことしないよ」
「いや、そうでもないよ……」
身体の底が淀んで視線を外す。遠くのあぜ道を誰かが歩いていた。少し先に停まっていた泥だらけの白い軽トラックに乗りこみ、また背景だけが取り残される。
じゃり、と足元の小石がこすれる音が聞こえて腕を引かれた。
「どこに行くの?」
「そう思うなら、謝りに行ったらいいでしょう?」
いつになく力が込められていた。もしくは振り払おうとする指令をわたしの神経が拒んだ。小さい真奈がつっかえ棒になってわたしを支えているような体勢だった。
「わかったよ。危ないからふつうに歩こう」
「みっちゃん、どっか行っちゃいそうなんだもん」
「逃げないよ。約束する」
しぶしぶ真奈が横に並ぶ。
冬に真奈とこうして歩いたとき、わたしたちは会話をしていただろうか。いつかはその日にあったことを事細かに説明できたのに、いまはろくにものを覚えていない。立体的に残っていたはずの記憶が白む。
「真奈、ひとりで会ってくるから、ばれないうちに戻ってよ」
店の看板が見えたところで、そう言った。
「ほんとうに? 平気?」
「うん。ありがとう」
わたしは最後の力を振り絞って瞳に力を入れた。徐々に真奈の眉と眉の間がひらいていって、陽射しのような顔色になる。
「休み時間に電話するね!」
踵を返した真奈はちらちらと振り向きながら少しずつ遠ざかっていった。だが四回目で立ち止まり、ぱたぱたと戻ってきてわたしの胴体にしがみつく。
「みっちゃん、一緒の大学に行って、一緒に住もう? 東京でも京都でも、真奈、頑張ってついていくから。そうしたらきっともう寂しくならなくて済むよ」
期待したようにわたしを見上げる真奈に気を取られていて頭がついていかなかった。もしかするとこの子は来年の話をしているのかもしれない。いま、いまのことを考えていたのだ、わたしは。
今日どうするか、をほしがっている。十七年しか生きていなければそのうちのイチはまだまだ大きな割合なのだから。
「そうだね。それがいいね」
大きく頷くと、真奈はわたしの匂いを肺いっぱいに詰めるみたいに吸いこんだ。そして、いっそうぺったりと吸いついて、はっきりと背骨をなぞってきた。
「……痛い」
真奈は一瞬ためらった。けれどまた、力を込めてくる。
「痛いってば……」
あーあ、痛いよ。
会いたいよ。
気づくとわたしはひとりで立っていた。
強く瞬きをして靄のかかる視界をごまかしながら歩きだすと、裏口から誰かが早足で近づいてくる。
ひなたさんはわたしを捉えずに虚ろな目をして角を曲がった。
だいたい予想はつくものの追いたくはなく、中途半端に開いた扉からなかに入れば目の前に階段があり、わたしは足をかけた。一段目だけが、みし、と軋む。
ひなたさんの部屋は黒と白が大半を占めている。香水のトップノートが染みこんで空気が甘辛い。乱れた窓際のベッドの向かいにあるガラス戸つきの黒い箱のなかにはカメラや機材が規則正しく陳列されているが、その横のテーブルの上は乱雑で、奥の壁のあたりに青いボールペンが落ちていた。
百円くらいで売っていそうなそのペンを拾い上げると、見える範囲にインクは入っていなかった。グリップの上をひねって芯ごと取り出してみる。水性の青色は底を尽きていた。
それをゴミ箱に放りこもうとしたとき、テーブルに放置されていたスマホが鳴りはじめた。
©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA