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第8回 目も当てられない。

小説『蒼い殻』第1話はこちら。

「ひまわりいろ」  風見 純

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 ぷす、と真んなかにナイフを刺せば、うっとうしく黄色い香りが漂う。

「でもね。レモンをくれる人に、嫌な人はいないと思うわけさ」

「何それ」

 わたしが聞き返すと、ぎしぎしとベッドを鳴らしながら淳は身を起こした。オーバーテーブルに手をのばし、真っぷたつになった片方を手に取る。

「だってあなたも、今度の人のことは気に入ってるんじゃない?」

 レモンもらってきたし、とつけ足して、みずみずしい半透明の中身をわたしの鼻に向けてくる。つん、と苦しい刺激が広がって、思わず顔を遠ざけた。

「ほかの人と同じだよ、ひなたさんも」

「ふうん?」

「わたしは淳を思い出して、淳が消えても淳を遺したいだけ」

 くし切りにしたレモンをひとつひとつティッシュに並べて、淳の目の前に置いた。こんなものを入れた水ばかり飲んでいて飽きないのか。塩分制限があるから普段口にするものは味がなくて仕方ないのだろうけど。

「そんなに早くおれになりたい?」と言って、淳はくし切りのレモンを、きゅ、としぼった。クリーム色のカーテンをすり抜けた陽射しが、荒れた浅黒い肌の凹凸をいっそう浮かび上がらせる。意味わかんなーい、とわたしが返せば、切れ長の目がいっそう細められた。

「そのへんの管を抜けば、たぶんすぐだよ。おれ、あなたが言うなら死んでもいいけど」

「頭おかしいんじゃない?」

「おかしいのはどっちだよ。おれの心を借りてるくせに」

 人のことを思い出すためにその人になってみるって、趣味悪すぎ。そう続けた淳は、しなしなになったレモンの皮を広げたティッシュの上に置く。紙コップのなかの水と、透明に絡み合う匂いがした。

「仮にあなたが言うようにね? おれが聖人君子だったとする。風見純は波多野淳になってみることで波多野淳を思い出そうとしているのかもしれないけど、純が人を励ますことでしあわせを感じている現状、早いとこ波多野淳のパーソナリティを自分のものにしたいと思っていても、おれは責めないよ」

「わたしがものすごいクズだってわかってて言ってるよね」

「おれは性善説をとってるから、その手には乗らない」

 最低な奴が神さまのふりをしているのではなく、ひねくれてしまった真人間が健気に生き延びようとしている、というスタンスは変わらないらしい。

「おれたちが知り合ったとき……いや、純流に言うなら再会したとき。あのときと比べたら、いまのあなたのほうが自分の存在意義を認めることができてるんでしょ?」

「そうだね。おっしゃるとおりだよ。わたしは彼氏にも妹にもなれるから、淳より淳を使いこなしてるけどね」

 アレンジしてるならもうそれはあなたなんじゃない、とへらへら笑っている淳を見て、前のほうが幾分か白かったよな、と三度素早く鼓動した。中三の春の〝母親〟が死んだ日、頭がからっぽになって院内を走り回っていたわたしとすれ違ったふくよかな彼は、こんなにもしぼんでしまった。あんたの顔の動かし方知ってる、というわたしの第一声は淳を驚かせることはなく、黙って自販機に向かった彼はホットのレモンウォーターを差し出した。

「そのうちおれよりも別の誰かに拘泥する日がくるよ」

 そのほうがいい、と淳はレモンの皮をティッシュに押しつけた。じわじわとしみが広がっていく。

 淳は自分がいなくなることでわたしが泣くと思っているのだろうか。

「その陽向さんって人は、どんなふうに見えるの?」

「愚かしいよあの人は」

 ひなたさんを写し取ると、傷口が不気味にぱっくりとひらいて徐々に上昇する水位に喉の奥が締めつけられる。いつか伊月美沙に何も感じなくなる日が来れば、五感で得たものすべてを雹に変えてそこに自ら飛びこむのだろう。それを感性の無駄遣いと考えても、感性のせいだと言ってもそのとおりだ。あの人の写真は解像度を問題にさせないような、たとえば髪のいっぽんいっぽんが見える気がするもののそれは被写体の全身に織り込まれた光の延長であって、何層にも重なる影を生み出す、枝葉を縫いつないできた木漏れ日だった。

「その人かもな」

 そう言った淳の声を無視して、すっかり湿ったティッシュに目をやった。せっかく皮を下にして置いたのに、もう匂いが染みついてしまっただろう。

 言葉も目の色も、そして声の震わせ方さえ。すべてで応えられるのに、淳の心の使い方を借りるまでは持て余していた。わたしはもう知っている。誰にも見破ることのできない罪は罪ではないと、わたしは知っている。

「純、十五分経った」

 スマホ、とだけ言った淳に頷いて、ロックを解除する。何人ぶんも溜まった通知のほとんどが自分はこんなにも悲惨だと飛ばしてくる。そこに顔文字でもついていたらこっちはずいぶんと白けた気持ちになるというのに。それが空元気だというのならなおさら。

 目も当てられない。

©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA

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