第12回 無難に。
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知らぬまに、金木犀は蒸発していた。
「そういえば今年嗅いでないかも」
サキちゃんはそう言って、ジャスミンティーがはんぶん残ったカップをローテーブルのソーサーに置く。
「フィレンツェにもあったでしょ」
「ぜんっぜん気づかなかった。なんなら銀木犀もあった。よゆーであった」
ふーん、と答えつつ雑誌をめくる。顔だけ太っただの黒くなっただのネットで騒がれていたけれど、ファッション誌ではまぁいい感じに加工されていること。
「じゃあ鼻がおかしいのか、それとも頭か」
「ねー、もうちょっと敬いなさいよ、お母さんなんだからー」
「あぁ。設定ではね、お母さんってことになってたね」
「ひっどぉい。泣いちゃうぞー」
ひえーん、という意味不明な効果音つきの泣きまねをしてくる、元近所のおねーさん。勢いよく風を吹き出している暖房が暑苦しい、というよりうるさい。手を伸ばしてリモコンを取り、下向きの三角を四回押した。やめてよ寒い、とクレームが来たので少し戻す。スピーカーから流れる『献呈』に雑音が混ざらないぎりぎりの強風。
「別にやめてもいいんだよ、いますぐにでも」
どうせわたしを手放せないのだ、この人は。わたしはサキちゃんが実家に帰らないためにふさわしい口実だ。飛行機が着陸するのが羽田だろうが成田だろうが、純が待っているからと東京を素通りできる。
「むりむり。あたし、あなたのことほっとけないもん」
「そう」
ソファーの背もたれの隙間に手を突っ込むとひんやりしている。サキちゃんは冴えた目をして、おそらく間を持たせる音楽よりもわたしがジャスミンティーの最後のひとくちを飲みこむ瞬間に耳をすましていた。
「そろそろ行こっかな」
サキちゃんがティーカップを持って立ち上がる。
「たかが十分のために帰ってくる必要ないのに」
「うん、次は来月ね。イングランドのときは、お土産は紅茶だよね」
わたしの頭に二度触れた手をふわふわと動かすと、サキちゃんは「またねっ」と去っていった。
わかってはいた。サキちゃんがわたしに注ぐ温度は親と変わらぬそれなのだ。利害の一致の横にきれいごとを並べても、どちらが先なのかわからない以上嘘にはならない。
父親が家に帰らず不倫を繰り返し、地元に帰って入院していた母親が死ねば。
サキちゃんにとって、わたしは気の毒な子なのだ。無難に。
しばらくぼうっとしたのち、雑誌を持って街に出た。重く下降してくる雲は、わざわざ見上げなくてもそこにあるのだとわかった。雪置き場になりはじめている歩道を歩く気にはなれず、赤茶けた車道をべちゃべちゃと踏みしめて進んだ。
©︎Nanako Otake / Studio AOIKARA